衒学ポップ :\ Notes \ 芸術作品の完成とは、美の追求の諦めである




芸術の製作は、美を追求する行為である。しかし、もうこれ以上手のつけようの無いような、完全な美というものを具現化することは、不可能に近い。芸術作品は常に改良の余地を残しているのだ。

つまりずっと美を追っていては、いつまでたってもその作品を鑑賞したり、他者に公開することが出来ない。言うなればスープを煮込みながら餓死するようなもの。だから芸術家は、必ずどこかで、製作活動をやめざるを得ない。どこで?

製作資本(素材、動機、時間など)が切れたときだ。美の追求のためには、勿論、製作資本は無尽蔵であるのが理想ではある。物資は多ければ多い程良いし、芸術活動は常に精力的に行うべきだ。でもそれはやっぱり理想。だから例えば週刊誌に自分の作品を連載している人間は、一週間という期限を守って芸術活動を行う。少なくとも、守ろうとする。

さて、芸術の製作は、製作資本が切れたときに終わるものの、そのときその芸術作品が完成する、とは限らない。正確には、芸術家がその芸術作品の完成を認められる、とは限らないのである。

大型作品展に芸術作品を展示するつもりが、締め切りに間に合わず中止になったなんて話もよくきく。これは、時間という製作資本が切れたときに、作者が、その芸術作品の完成を認められなかったということである。展示したければ、下書きのままだろうが、モアレだらけだろうが、すればいい。彼らの勝手である。

補足しておくが、芸術家がその芸術作品の完成を認める、とは、芸術家がその芸術作品のクオリティを、彼の客が満足するに足るものとみなす、ということである。客層=自分であれば、自分が満足するに足るクオリティが必要となるし、客層=他人であれば、他人が満足するに足るクオリティが必要となる。

そして、芸術家がその芸術作品の完成を認めたとき、「製作活動の動機」という製作資本が切れ、彼の製作活動は終わるだろう。

芸術作品の完成とは、言葉どおり「完全に成る」という意味ではないのである。そのクオリティは、便宜的な、現実的なレヴェルに収束するのである。



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