コミュニケーションというのは難しいものである。
誰しも友人や同僚と議論を上下したことはあると思うが、
実際には議論に見えて議論ではない場合が多い。
言葉の定義というものがあるから人は他者と意思疎通を図ることができる。
例えばエビフライを知らない人には、
「エビフライが食べたい」「エビフライは美味いよね」なんて言葉は通じない。
またエビフライを少し知ってはいるが、天ぷらとの違いはわからないという人には、
「エビフライが食べたい」と言ってはいけない。
彼が笑顔で天ぷらを差し出してくるかもしれない。
また、「エビフライは美味いよね」と言うと、
彼は天ぷらを想像してこう返してくるかもしれない。
「ええ? 油っこいし、どこが美味いのさ?」
するとエビフライ議論が始まる。これはタチが悪い。
なぜならこのエビフライ議論は実際には「エビフライと天ぷら議論」であって、
しばらく話した後になってお互い無駄な時間を過ごしたことに気付くのだ。
問題はそれぞれが認識している言葉の定義が違うことである。
仮に二人ともが天ぷらについて話していたとしても、
この二人の間において「エビフライと呼ばれる天ぷら議論」は成立する。
まあこんなのは下らない笑い話で済む。
しかしこの類の似非議論というのは非常に多いのである。
救い難いのは、別段論理的思考を必要とされる環境にいない一般人のみならず、
文学批評や政治討論などの所謂頭脳労働を行う専門家ですらも、
言葉の定義認識のズレによって散々不毛な議論を繰り返した挙句、
もっともらしく、聞こえは良いものの、
内実非論理的で役に立たない結論を出して満足することがあるということである。
さて、議論が高度化するにつれ、
言葉の定義が足りなくなってくることがある。
新しい概念を導入した場合などには、
その概念に名を付けなくてはならない。
そしてまた新しい言葉が生まれる。
新しい言葉というのは高度な議論において必要に迫られて誕生したわけであるから、
その言葉を知っているだけで、
なんとなく、高度な議論が出来るようになった気になる。
その言葉を使えば、容易に知ったかぶりすることが可能になる。
そして、しっかりとその分野について学ぶ事無く、
ただ専門用語だけを並べ立てる者が増えていく。
言葉は間違った使い方をされ、その定義はどんどん曖昧になっていく。
他者に何かを伝えようとするときには、
使用する言葉の原義を使うべきなのは言うまでもないことだ。
上記のエビフライと天ぷら議論において非があるのは、
エビフライと天ぷらを混同していた方である。
また、定義の曖昧な言葉などは、
議論をする都度再確認・再定義し、
論者皆が同じ定義認識を持っていなければならない。
私はそんな域から脱そうと努力してはいるものの、
例えばエビフライと天ぷらの違いを説明しろと言われても、
粉が違うってことくらいしか言えないんすよね。
目次へ
衒学ポップ