衒学ポップ :\ Notes \ 高嶺の乾燥草花〜美男美女ばかりの芸術作品について〜




外見的に美しい(即ち、鑑賞者が視覚から内的快感を得られるような)人が、
白目をむいて鼻の穴を膨らませていても美しい、とは限らない。
あるいは、
白目をむいて鼻の穴を膨らませていれば美しい、という人もいるかもしれない。
ここで言いたいのは、
人間がどんな状況下でも美しくあることは、困難を極める
ということである。

ところで、古来より、芸術作品には多くの美男美女が登場してきた。
外見的醜さを排除した、あるいはしようとした作品も多い。
つまり、醜い者は殆ど登場しないし、登場する美男美女達はどんな状況下でも美しくある、そういった作品、あるいはそういった志向を持つ作品である。
さて、上記の志向を持つ作品でも、小説など、(文字を読む以外に)視覚に頼らない芸術作品ならば――重要なのは文字を読んだ後の読み手の想像であり、それによって美しさを補完できるため――さして問題は無い。
しかし、視覚に頼る芸術作品、特に記号的表現を使う芸術作品において、
状況の変化が、キャラクターの外見的な美しさを損なうことがある。

例えばアニメでは、外見的美しさを表現するためにキャラクターの目や鼻をデフォルメすることがあるが、それらが効力を持つのは、ある一定の角度においてのみである。
斜めからや、横から見ても美しいようにするには、それらの角度用の記号がまた必要になる。そして、様々な状況に合わせて違う記号を用いるということは、外見的リアリティを損なうことに繋がる。
誰かに横から見られると睫が生えてくるような人、周りにいないでしょう?

美しさも外見的リアリティも守ろうとするならば、状況を制限する以外に殆ど手は無い。 例えば映画は(何せ現実をそのまま映したものであるから)外見的リアリティを守らざるを得ない。即ち様々な状況に合わせて違う記号を用いることが出来ない、というよりカメラが映すのは実際の目や鼻そのものであって最初から記号ではない。だから外見的醜さを排除するためには、横顔の醜い役者は横から映さないようにするし、笑うと醜い役者の笑顔は映さないようにする。
どうしても、そういった状況を芸術作品の中に組み込むというのなら、役者を代えるか、その部分のみ外見的醜さを許容するしかない。

こうして、外見的醜さを排除する志向を持ち、かつ視覚に頼る芸術作品中において、表現に制限がかかっていくことになる。人形劇のように、美しくとも無表情なキャラクターばかりが登場する芸術作品が増えたのは、これによるところが大きいだろう。

というか、外見的リアリティどうこう以前に、美男美女しかいない世界というのもリアリティの無い話であるし、当たり前のように美男美女ばかりって作品があんまり増えるものだから、そういった作品に対してアレルギー気味になってしまうことが、私にはよくある。



目次へ

衒学ポップ