衒学ポップ :\ Notes \ 神経質な芸術家は損をする




芸術家が自分の芸術作品の完成を認めるということは、「自分の芸術作品が『客が満足するに足る品質』を持っている」とみなすということである。ターゲット層=自分であれば、自分が満足するに足る品質が必要となるし、ターゲット層=他人であれば、他人が満足するに足る品質が必要となる。

さて、殆どの場合において、客は複数いるだろう。そして、どの客も同じ程度の品質を求めているということはまずあり得ない。レストランの客には、小食の者もいれば大食の者もいる。

ということは、自分の設定しているターゲット層がどのようなものかによって、必要となる芸術作品の品質も変わってくるわけである。また、客がどの程度の品質を求めているか、正確に把握することは不可能である。結局のところ「公開する芸術作品の品質をどの程度のものにするか」は、芸術家自身が決めなければならないのである。

つまり、芸術作品の完成を、気楽な、大雑把な芸術家は認めても、完璧主義な、神経質な芸術家は認めない、といった場合がある。

大雑把な芸術家は、芸術作品の完成を認める及第点が低い。彼らは、専ら怠惰から、芸術作品の品質向上が嫌になって、未完成の芸術作品を公開することもある。彼らの芸術作品は、時折客を物足りなく感じさせる程に、比較的低品質なのであるが、その代わり数は多くなる傾向にある。

神経質な芸術家は、芸術作品の完成を認める及第点が高い。彼らは、時に、偏屈な程に芸術作品の品質を向上させようとする。彼らの芸術作品は、時折客に物足りなく感じさせる程に、比較的少数なのであるが、その代わり品質は高くなる傾向にある。

ただし、どんなに高品質な芸術作品も、客に理解されなければその意味を持たない。客を満足させたい一心で大量の料理を作ったとしても、客が食べ切れなかった分は結局無駄になってしまうのである。

神経質な芸術家が、高品質な芸術作品を公開し続けた場合、客が理解し切れなかった部分は無駄になり続ける。それは芸術作品の品質向上に費やした資本が無駄になるということであり、そういった意味で言えば、神経質な芸術家は大雑把な芸術家に比べて「損をしている」ことになる。





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