衒学ポップ :\ Notes \ 衒学する学術書




作成:平成二十一年

貴方がこれまでに読んだ、学術書(ここでは「学術」は応用分野を含んだ学問のことを指すとし、芸術を含まないとする)の文章を思い出してみて欲しい。それは回りくどい、偉そうな文章で書かれていなかっただろうか。学術書というのは衒学的な文章(世の知識人達の権威を想起させ、それを衒学者自身に付随させるよう文章)で書かれているものがとても多いのだ。いわゆる文語である。文語というものは、口語と乖離しているからこそ文語であり、そのため情報伝達効率が悪く、学術を志す人々の障害となる。しかしそれでも、執筆者達は格式にこだわる。そして恐ろしいことに恐らく、それは執筆者達自身の自己顕示欲求によるとは限らないのだろう。「学術書というのは口語で書いてはいけないのだ」という強迫観念じみたルールが、彼らを縛っているのだ。

日本においても、過去に、誰かが学術書に衒学的言い回しを持ち込んだことは明らかだ。聡明な人々は衒学的言い回しに対してアレルギーになることなく、有益な情報として学術書を読み、理解した。そして彼らは先人の例に従って――また同時に自己顕示欲求から――衒学的な文章で学術書を書いた。普段の会話で使われる文章と学術書で使われる文章は次第に乖離していき、口語と文語という区別が生まれた。衒学は文語の親のようなものである。始まりがどの時点であったか正確に割り出すことは今のところ不可能に近いが、そういった口語と文語の乖離は、平安時代から顕著になったと言われている。

言うなればそれは格式の創出である。学術の世界において権威を持つのは知識人であり、知識人のみが使う言語というものを創出し使用することで知識人達の権威を執筆者に付随させる。それが文語による衒学である。

明治時代には口語と文語の乖離を修正するために、言文一致運動が起こった。それによって文語はかなり口語に近づけられた。運動は成功したのだと言える。しかし、ついに口語と文語の完全な一致はなされなかった。

そもそもそれは不可能なものなのだ。いつの時代も絶対に、どこかで誰かさんが衒学的な文章を書く。それは自己顕示欲求によるところが大きい。「高貴な文章」を書こうとするのだ。そして勿論その背景にはそれを受け入れる土壌があるのだ。「高貴な文章」なんて、「芸術品のアウラ」と同じくらいうさんくさいというのに。

いや口語というのはその当時の流行語などに影響を受けているもんだし、後世に伝えるという目的においては、情報伝達効率が悪くなりがちであろうとも文語を使うのがよいのだ、という人もいるだろう。しかし本当にそうか? 本当に、何百年後の人々を客層とみなして文章を書いているだろうか? 私にはそうは思えない。だって時事ネタを扱ったような評論だって、口語では書かれないではないか。大体、論理的正しささえ守っていれば、いくら当時の流行語がまざっていたとしても後世において解読は容易い。

私は、衒学的な文章ばかりを書く人々や、文語による文章ばかりを書く人々を責める気はない。私がその一人だから。私の行う衒学批判はあたかもブーメランのように私自身に返ってくる。私が疑問に思うのは、口語と文語の一致を非とする風習である。上記の「高貴な文章」を守ろうとする風習である。例えばニュースが口語で書かれていたら、文句を言いたくなる人もいるだろう。もしかすると、「敬語で書かんか!」と文句を言うかもしれない。敬語ではなくても、文語でしたらお許しになるのですから、そのご批判は少しおかしいですよね。

口語と文語の一致を非とする風習なんて、明治時代の言文一致運動とは全く正反対のものだ。「高貴な文章」は本当に守らなければならないのか? 私はそうは思わない。燃え尽きたマッチのように捨てられてしまった言文一致運動。この平成の世に、もう一度マッチを擦るべきだとは言わない。それは今や大げさすぎる。だが、「口語と文語は一致すべきである」という認識を広めることは依然として必要である。


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