衒学ポップ :\ Notes \ 純粋芸術と大衆芸術




芸術(内的快感をもたらすもの)は様々にカテゴライズ出来るが、
ここでは大衆芸術というカテゴリを用意してみる。
これはある客層に対して、
受けの良いものを志向した芸術ということである。
このカテゴリを用意する以上、相反するカテゴリが誕生する。
これをここでは純粋芸術と呼ぶこととする。
これは客受けは度外視し、
自分にとって美しいものを志向した芸術ということである。

さて、客受けというものを最終的な指針として創られる
大衆芸術と違い、純粋芸術家は自分の美意識のみを頼りにしなければならない。
つまり純粋芸術とは、正確に言えば
「自分の好みを追求した芸術」
ということになる。
そして大衆芸術とは、
「他人の好みを追求した芸術」
ということになる。
純粋芸術家の、自分の好みを追求するという行為は、
大きい内的快感を得たい、という純粋な動機による。
対して大衆芸術家の、他人の好みを追求するという行為は、
ただ自分の自己顕示欲求によるため、
大衆芸術家の動機は、文字通り「不純」だと言える。
よって、大衆芸術家が純粋芸術家に負い目を感じるというケースも存在する。

大衆芸術家はその作品を公開することで賞賛や名声、報酬等を得られるだろう。
しかし純粋芸術家はそれらを得ることは出来ない。なぜなら、
純粋芸術を公開することはタブーであるから。

純粋芸術を公開して仮に客受けがよければ、
芸術家はますます自分の作品が好きになり、
内的快感は結果的に増幅されるかもしれない。
しかし厄介なのは悪評を受けたときである。

大衆芸術家が自分の作品において悪評を受けた場合、
それは往々にしてプラスになる。
「こんな作品クソ」
そんな一言で終わっていればどうしようもないが、
「ここはこうした方がいい」「この方が俺は好きだ」
そんな、鑑賞者の意見というものは、
大衆の好みを知るよい材料となり、
次の作品に反映させることができるからだ。

純粋芸術家の場合はどうか。
鑑賞者の意見が自分のものと一致していればいいが、
自分の美意識に全くそぐわない意見を受けたとしても、
純粋芸術家に出来ることは何も無い。
自分の作品を否定されて後味の悪い思いをするだけだ。
冷静さを欠いて自分の作品の良さを説明し始めたりしたら、
滑稽この上ないというものだ。
第一自分の好みに合わせている以上、
悪評を受ける可能性は大衆芸術に比べて高い。
特に、自分にだけ分かる表現を取り入れている場合、
鑑賞者は完全に取り残されてしまうことになるのだ。

タブーを破り純粋芸術を公開する者は多い。
まあこの自分の好みを押し付けるような行為も、
鑑賞者から好評であれば問題は無い。
ただし純粋芸術家はその性質上、
自信とプライドを肥大させやすい。
「先生」や「御大」等と呼ばれ、
四六時中書斎に篭っている様な「頑固な芸術家」のイメージは、
彼ら純粋芸術家によって定着したのかもしれない。

純粋芸術家は自分の作品を美しいと感じているため、
仮にそれが他人に受けなかったとしても、
「いつかは認められるはずだ」
あるいは
「見る目の無い奴ばかりだ」
などと考える。決して自分の作品を改変したりはしない。
生活のために副業に追われ、
狭い部屋で慎ましく創作活動に没頭するような「売れない芸術家」のイメージも、
彼ら純粋芸術家によって定着したのかもしれない。

自己顕示欲求を抑えきれず、
純粋芸術を公開するというナンセンスな行為に走ってはならない。
純粋芸術は個人利用に留め、
他人に公開するのならば最初から大衆芸術を創るべきなのである。



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