衒学ポップ :\ Notes \ 衒学とは何であるか




衒学という言葉の定義は何か?

辞書を引けば、衒学とは知識のあることを必要以上にひけらかすことだとあるだろう。ここではこの定義に対して異議を唱えたり、あるいは更なる補足をしたりすることはしない。ただまず、「衒学」という語と、「知ったかぶり」という語との関連について少し書いておきたい。

辞書を引けば、知ったかぶりとは、それほど自分が知らないことを、あたかもよく知っているかのようにひけらかすことだとあるだろう。ならば、この語と衒学という語はニュアンスが違うこととなる。

衒学は、ある程度の知識を持った者のひけらかしであるが、 知ったかぶりは、あまり知識が無い者のひけらかしである。 これだけ使用される状況の違う言葉が、まるで同義のように扱われるのはおかしい。それは明らかだ。しかし実際には、衒学は知ったかぶりとほぼ同義として扱われることが多い。なぜか?

衒学も知ったかぶりも、どちらも知識を「ひけらかす」という行為において共通しているからである。従ってこれらの行為から受ける印象は悪いものになる。ひけらかすという行為は、即ち情報を発信する行為ではあるが、情報を相手に与えるという目的によってなされるのではない。教師というのは知識をひけらかしているわけではないのである。ひけらかすというのは専ら自己顕示欲求からなされるものである。つまり多くの場合、利益を得るのは被ひけらかし者ではなくて加ひけらかし者であり、被ひけらかし者は加ひけらかし者の道具でしかない。だから被ひけらかし者となったものはひけらかしという行為に悪い印象を受けるのである。

だから結局のところ、衒学者が知ったかぶり屋を非知識人として嘲笑したところで、目くそ鼻くそを笑う、ということになってしまうのである。言い換えるならば、その二つの区別に対して、人々は大して関心を持たないのである。そこには、人のふり見てわがふり直せ、他人の知識の欠如を笑う前に自分の知識のひけらかしをやめろ、という視点が存在する。衒学は悪であるという前提のもとにである。

それともう一つ重大な問題として、「知識のある」という修飾語の定義が曖昧なところにある。相手、あるいは自身の知識のひけらかしを衒学と判断するか知ったかぶりと判断するかは判断者の価値観にかかっており、公式に線引きをすることは出来ないのである。

衒学と知ったかぶりの区別に関する記述はとりあえずここで終わるが、その区別は以降を読む前提として置いておいて欲しい。

ここで、「衒学的」という、とても定義の曖昧な修飾語に関して書いておきたい。これは英単語"Pedantic"の訳語であるが(ちなみに衒学という語よりも衒学的という語の方が多く使われるらしい)、「衒学的な文章」などという風に使われる。当然、衒学という語は言語コミュニケーション上での語であるから、「文章」という語を修飾するのは当然のことであるが、じゃあ「衒学的な文章」ってのは一体全体どんな文章なのだ? と疑問を持つのが当然であろう。

この稿をご覧の方は、わざわざ「衒学的な文章」をインターネットなどで探す必要は無い。今貴方がご覧になっているその文章――そう、この文章である――は、かなり衒学的な文章だからだ。

つまり、「衒学的な文章」→「自分の持つ知識を強調するような文章」→「自分が豊富な知識を持つと演出するような文章」→「自分が豊富な知識を持つと演出するような言い回しが多用されている文章」、ということになる。といっても大体のところは、「偉そうでくどい」あたりの意味で捉えておけばよいだろうが。

では、「自分が豊富な知識を持つと演出するような言い回し」とはどんなものであろうか? 例を挙げるとすれば、語尾を「あろうか?」で終わるなどといった類の言い回しである。他には、語尾を「である」で終わるなどといった類の言い回しである。「などといった類の」も衒学的な言い回しだろう。「衒学的」という語自体もそうだ。これらは学術書(ここでは「学術」は応用分野を含んだ学問のことを指すとし、芸術を含まないとする)などで多用される言い回しである。衒学において重要なのは、世の知識人達の権威を想起させ、それを衒学者自身に付随させることである。「衒学的な文章」とは、「世の知識人達の権威を想起させ、それを衒学者自身に付随させるよう文章」のことである。

また、これら衒学的な言い回しを使用することは、明らかに情報伝達効率を悪化させる。非日常的な言葉を使うからである。じゃあなんでこういう、普段、人と話すときみたいな文章を書かないの? ときくだろうけど、それはだってカッコつかないからだよ。いやマジで。ちょっと小難しく書いた方が、読んだり聞いたりする人が持つイメージってのも変わるでしょ。学があってさ、人生経験の豊富な、結構年配の人が書いてるようなイメージにさ。

忘れないで欲しいのだが、口語であろうとも文語(多くの場合衒学的言い回しを含む)であろうとも、論理的正しさを守ることを大前提としなければならないということだ。前後で、言っていることが矛盾していたり、曖昧な言い回しを多用していて、受け取れる意味がいくつかに分化してしまっているような文章はこの稿では題目として扱っていない。

精神的に成熟している人なら、衒学的言い回しを使う人の文章を読むとしても、その鬱陶しさに目を瞑り、出来るだけ有益な情報を引き出そうとするだろう。逆にくだけた言い回しを使う人の文章を読むとしても、注目するのは内容であって、言い回しから執筆者の人間性を判断したりはしないだろう。馬鹿だとレッテルを貼ったり、その人の意見を全く無視してしまうようなことは無いだろう。

しかし、そのような柔軟性を持たない人は多い。「活字慣れしておらず衒学アレルギーで、ちょっとでも文章が小難しければ読むのをやめてしまう人」は放っておいても、「活字慣れしていて、衒学的言い回しの多い文章を読むことにアレルギーは無いが、その代わり口語アレルギーで、くだけた口調で、俗語を多用したりする人の文章は真面目に読まないって人」がいる。

そういった人達に文章を読んでもらうには、衒学的な文章を用意するしか道は無い。「私は知識人である」という演出が、柔軟な思考を持つ本当の知識人達には邪魔になり、頭の固い似非知識人達には有用なのだからなんだか皮肉なものである。


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